司法と独立機関――「法」が政治を動かす国
2006年以降のタイ政治でもっとも重要な変化は、権力闘争の舞台が街頭と兵営から、法廷に移ったことです。首相を辞めさせ、政党を解散させ、選挙結果を覆してきたのは、多くの場合、憲法裁判所と独立機関でした。
タイには司法裁判所・行政裁判所・軍事裁判所の3系統に加え、別格の憲法裁判所がある。憲法裁判所は単審制で、判断は最終。
憲法裁判所は政党を解散し、首相・大臣を失職させる権限をもつ。2007年以降、複数の政党と4人の首相がこの手続きで職を失った。
独立機関(EC・NACC・SAO・オンブズマン・NHRC)の委員人事は上院が承認する。人事の入口を握ることが、政治的に決定的な意味をもつ。
4つの裁判所
タイの裁判所は、日本のように一本化されていません。司法裁判所・行政裁判所・軍事裁判所の3系統に、憲法裁判所が別格として加わる構成です。
憲法裁判所だけは単審制で、判断は最終。政治にもっとも直接に効くのはここ。
司法裁判所――民事・刑事、そして専門裁判所
いちばん大きいのが司法裁判所(ศาลยุติธรรม)で、第一審裁判所→控訴裁判所→最高裁判所(ディーカー、ศาลฎีกา)の3審制です。その内部に、ビジネスで重要な専門裁判所が置かれています。
- 中央労働裁判所(ศาลแรงงาน)――解雇、賃金、残業代。手数料無料で労働者が訴えやすい。
- 知的財産・国際貿易中央裁判所(IP&IT)――商標、特許、国際売買。英語の証拠が扱いやすい。
- 税務裁判所――歳入局の課税処分を争う。
- 破産裁判所――倒産・事業再生。
- 最高裁政治職者刑事部門――大臣・議員の汚職を裁く特別の部門。
行政裁判所――役所を訴える場所
1999年に設けられた行政裁判所(ศาลปกครอง)は、行政処分の取消しや国家賠償を扱います。2審制です。外国企業にとっては、許認可の不許可処分や公共調達での不利益な扱いを争う場になります。実際に外資系企業が行政裁判所で勝訴した例もあり、「役所は訴えられない」というのは誤解です。
憲法裁判所――政治を左右する9人
憲法裁判所(ศาลรัฐธรรมนูญ)は1997年憲法で創設されました。裁判官は9名、任期7年(再任なし)。最高裁と最高行政裁から選ばれる裁判官、法学・政治学の専門家、元高級官僚などで構成され、上院が人事を承認します。
重要なのは、単審制で判断が最終である点と、申立ての入口が広い点です。議員の一定数、オンブズマン、選挙管理委員会、そして事件の当事者などが申し立てることができ、その結果、政治的な争いが日常的に憲法裁判所に持ち込まれます。
判決が政治を変えた場面
| 年 | 対象 | 判断の内容 |
|---|---|---|
| 2007 | タイ・ラック・タイ党 | 選挙法違反を理由に解散。幹部111名に5年の政治活動禁止 |
| 2008 | サマック首相 | 民間テレビの料理番組への出演が「兼職」にあたるとして失職 |
| 2008 | 国民の力党(PPP)ほか | 選挙違反を理由に3党を解散。ソムチャイ首相も失職 |
| 2014 | インラック首相 | 国家安全保障会議事務局長の異動が違法として失職。直後にクーデター |
| 2019 | タイ・ラクサ・チャート党 | 王族を首相候補に擁立したことを理由に解散 |
| 2020 | 新未来党(FFP) | 党首からの融資を「違法な寄付」と判断して解散。幹部に10年の禁止 |
| 2024(1月) | 前進党(MFP) | 刑法112条改正の公約が「立憲君主制の転覆の試み」にあたると判断 |
| 2024(8月) | 前進党 | 上記判断を理由に解散。党は「人民党」として再結成 |
| 2024(8月) | セーター首相 | 前科のある人物を閣僚に任命したことが倫理基準違反として失職 |
| 2025(8月) | ペートンターン首相 | カンボジアとの国境問題をめぐる通話が倫理違反として失職 |
憲法裁判所が政治を動かした主な判断
独立機関――もうひとつの権力
憲法は、政治から独立した監視機関を複数置いています。実務でも政治でも重要なのは、選挙管理委員会(EC)と国家汚職防止委員会(NACC)の2つです。
NACC――資産申告と汚職の捜査
NACC(ป.ป.ช. ポーポーチョー)は、公職者の資産申告を受理・公表し、汚職の疑いを捜査します。首相・大臣・議員・高級官僚は就任時と退任時に資産を申告する義務があり、虚偽申告や説明できない資産の増加は、それ自体で失職・訴追の理由になります。企業側にとって重要なのは、贈収賄の摘発が公務員側だけでなく、贈った側の企業にも及ぶことです。タイの汚職防止法は法人にも責任を課しており、「適切な内部統制措置」を講じていない法人は従業員や代理人の贈賄について責任を問われうると規定しています(第20章)。
EC――選挙を管理し、政党を訴える
EC(กกต. コーコートー)は選挙の管理者ですが、同時に政党の解散を憲法裁判所に請求する主体でもあります。上記の政党解散のほとんどは、ECの請求から始まりました。また当選者に対してイエローカード(再選挙)やレッドカード(当選無効・立候補資格剥奪)を出す権限をもちます。
警察・検察・DSI
刑事事件の入口は王室タイ警察(ตำรวจ)です。警察庁長官は首相の直属で、国家警察委員会(首相が委員長)が人事を決めます。つまり警察は事実上、首相の管轄下にあります(第8章)。大型・複雑な事件は特別捜査局(DSI、ดีเอสไอ)が扱います。法務省の下にあり、日本の特捜部に近い位置づけです。2024年の上院選出をめぐる捜査もDSIが担当しました。
起訴は検察庁(สำนักงานอัยการสูงสุด)が行いますが、タイでは私人が直接、裁判所に刑事告訴できる(ฟ้องเอง)点が日本と大きく違います。名誉毀損(刑事)や刑法112条の事件が第三者から起こされるのは、この制度によります。
実務――紛争になったらどうするか
ビジネス上の紛争解決の選択肢を整理します。「訴訟は最後の手段」であることは日本と同じですが、タイでは和解を促す文化と制度がより強く働きます。
まとめ
- 裁判所は司法・行政・軍事の3系統+憲法裁判所。憲法裁判所は単審制で判断は最終。
- 憲法裁判所は政党を解散し、首相・大臣を失職させてきた。2007年以降、複数政党と4人の首相がこの経路で職を失った。
- 独立機関のうちECとNACCが実務でも政治でも重い。委員の人事は上院が承認する。
- 刑事の名誉毀損があり、私人が直接起訴できる。SNSでの発言は要注意。
- 紛争解決は和解が基本。契約書で準拠法・言語・段階を先に決めておく。
章末チェック(5問)
1. 憲法裁判所の裁判官の人数と任期は。
- 9名、任期7年(再任なし) ← 正解
- 15名、任期10年
- 7名、任期4年
- 9名、任期終身
上院が人事を承認します。単審制で判断は最終です。
2. 憲法裁判所の権限に含まれないものは。
- 法律の違憲審査
- 政党の解散
- 政治家の資格審査
- 刑事事件の第一審の審理 ← 正解
刑事事件は司法裁判所の系統です。憲法裁判所はほかに権限争議の裁定、憲法改正の可否の審査を行います。
3. NACCの主な役割は。
- 選挙の管理と政党の解散請求
- 公職者の資産申告の受理・公表と汚職の捜査 ← 正解
- 国と地方の会計検査
- 人権侵害の調査と勧告
選挙管理はEC、会計検査はSAO、人権はNHRCの役割です。
4. 行政裁判所は何を争う場所か。
- 憲法違反の有無
- 行政処分の取消しや国家賠償など、行政の行為の適法性 ← 正解
- 労働者の解雇
- 企業間の売買代金
許認可の不許可処分や公共調達での不利益な扱いを争う場になります。2審制です。
5. タイの名誉毀損が日本と大きく違う点は。
- 民事賠償しか請求できない
- 刑事罰があり、私人が直接起訴できる ← 正解
- 外国人には適用されない
- 時効が非常に長い
コンピュータ犯罪法と組み合わせて用いられることも多く、SNS投稿や社内メールが刑事事件になることがあります。