憲法とクーデターの歴史
タイの憲法は1932年から数えて20を数えます。平均すると1つの憲法の寿命は5年弱。同じ期間に成功したクーデターは13回。この数字だけを見ると「不安定な国」に見えますが、そこには一貫したパターンがあります。憲法は、そのときの権力バランスを固定するための道具として書き換えられてきたのです。
1932年以降、憲法は20、成功したクーデターは13回。「クーデター→暫定憲法→新憲法→選挙→混乱→クーデター」の循環がくり返されてきた。
1997年「人民憲法」は民主的な設計の頂点だったが、強い首相を生み出し、2006年のクーデターにつながった。
現行の2017年憲法は、上院の任命・20年国家戦略・独立機関の権限強化により、「選挙の勝者が単独で方向を変えられない」構造を組み込んだ。
なぜ憲法が20もあるのか
日本国憲法は1947年の施行以来、一度も改正されていません。タイはその同じ期間に、憲法そのものを十数回書き換えています。答えは、タイでは憲法が「国のかたちを決める最高法規」であると同時に、「そのとき権力を握った側が自分に有利なルールを固定する道具」でもあったからです。
この円環を断ち切れるかどうかが、2026年に始まった新憲法論議のもっとも大きな問いになっている。
1932年――立憲革命と、その後の分裂
1932年6月24日未明、フランス・イギリス留学組の若手軍人と文官からなる人民党が、王宮の外で無血のクーデターを実行しました。ラーマ7世は要求を受け入れ、同年12月に恒久憲法が公布されます。
しかし人民党はすぐに2つの潮流に分裂しました。プリーディー・パノムヨン(文民・社会経済計画派)と、ピブーンソンクラーム(軍人・ナショナリズム派)です。1938年に首相となったピブーンは、国名を「シャム」から「タイ」に変更し(1939年)、服装や言語まで含む「文化令」で国民生活を統制しました。文民と軍人の対立という構図は、このときから始まっています。
冷戦期――開発独裁と、二つの10月
1957年、サリット・タナラット元帥がクーデターで政権を握り、翌年には憲法も議会も政党もすべて廃止しました。サリットは代わりに「国家・宗教・国王」を統治の正統性の柱に据え、王室の権威を積極的に活用します。同時にアメリカの援助を受けて道路・ダム・教育に投資し、開発独裁と呼ばれる高度成長の時代を開きました(第11章)。
この体制はサリットの死後もタノーム政権に引き継がれますが、1973年10月14日、学生を中心とする数十万人のデモが軍事政権を倒します(10月14日事件)。続く3年間は「民主主義の実験期」でしたが、左傾化への警戒が強まり、1976年10月6日、タンマサート大学で学生への凄惨な弾圧が起きたうえでクーデターが発生しました(10月6日事件)。
1980年代のプレーム・ティンスーラーノン政権は、「選挙で選ばれた議会」と「軍・官僚出身の非公選の首相」を組み合わせた「半分の民主主義(ประชาธิปไตยครึ่งใบ)」と呼ばれる体制でした。この時期に経済は離陸し、日系企業の進出が本格化します。
1992年から1997年へ――民主化の頂点
1991年のクーデター後、軍出身のスチンダーが選挙を経ずに首相に就任したことに市民が反発し、1992年5月に大規模な衝突が起きました(暗黒の5月)。国王の調停で事態は収束し、以後「軍人首相」は事実上のタブーになります。
この経験から生まれたのが1997年憲法、通称「人民憲法」です。起草に市民が広く参加し、次のような画期的な仕組みを導入しました。
- 上院を全員公選にした(それまでは任命)。
- 憲法裁判所・選挙管理委員会・汚職防止委員会・国家人権委員会を創設し、政治から独立した監視機関を置いた。
- 小選挙区+比例代表の混合制を導入し、政党の統合と政権の安定を促した。
- 首相の不信任決議に必要な議員数を引き上げ、強い行政府をつくった。
2006年と2014年――二度のクーデターと2017年憲法
2006年9月19日、タクシン首相が国連総会で外遊中に軍がクーデターを実行。2007年憲法は上院の半数を任命制に戻し、独立機関の権限を強めました。しかし選挙をすればタクシン派が勝つ構造は変わらず、2008年、2010年、2013〜14年と街頭の対立がくり返されます。
2014年5月22日、プラユット・チャンオーチャー陸軍司令官がクーデターを実行し、NCPO(国家平和秩序評議会)が全権を掌握しました。軍政は5年近く続き、2016年8月の国民投票(賛成61.35%)を経て、2017年憲法が2017年4月6日に公布されます。
※ 上院の首相指名権は2024年5月に失効し、以後の首相指名は下院のみで行う。
2017年憲法が組み込んだ「歯止め」の設計。選挙で多数を取っても、単独では方向を変えられない構造。軍政が去ったあとも制度として残ることを狙った設計。
| 装置 | 内容 | 現在の状態 |
|---|---|---|
| 上院 | 移行期の5年間、上院250名をNCPOが任命し、首相指名にも投票させた | 2024年5月に移行期終了。現在は20の職業グループの相互選挙で選ばれた200名 |
| 20年国家戦略 | 2018〜2037年の国家戦略を法定し、すべての政権を拘束 | 現行。予算はこの戦略との整合性を求められる |
| 独立機関 | 憲法裁判所とNACC等に、政治家の失職や政党解散を判断する権限 | 現行。首相の失職・政党解散が実際にくり返されている(第6章) |
| 改正条項 | 上院3分の1と野党20%の賛成が必要。一部は国民投票も | 現行。2026年の新憲法づくりの手続上のハードルになっている |
2017年憲法の4つの装置と現在(2026年)の状態
加えて、上院の選出方法そのものが2024年以降の焦点になりました。20の職業グループの候補者が郡・県・全国の3段階で相互に投票して200名を選ぶという世界的にも珍しい方式ですが、2024年6月の選出をめぐって組織的な投票の疑いが持たれ、特別捜査局(DSI)と選挙管理委員会が大規模な捜査を行っています。
憲法改正の手続き(2017年憲法256条)。上院と野党の同意が必要な設計のため、単独過半数の政党でも改正できない。
2026年――新しい憲法をつくる、という選択
2023年の総選挙以降、憲法改正はほぼすべての政党の公約になりました。紆余曲折のすえ、2026年2月8日、総選挙と同時に国民投票が行われ、「新憲法を制定すべきか」に賛成60.16%(投票率69.65%)で新憲法の制定が承認されました。
新憲法づくりのプロセス(2026年8月時点)
ただし、道のりは平坦ではありません。最大の争点は憲法第1章(総則)と第2章(国王)を改正の対象に含めるかです。憲法裁判所は過去に、これらの章の改正には改めて国民投票が必要という趣旨の判断を示しており、保守側はこの2章を「触れてはならない」領域と位置づけています。
同時に行われた総選挙では、保守系のタイ誇り党(プームジャイタイ)が192議席を獲得して大勝し、急進的な改憲を掲げた人民党は120議席にとどまりました。つまり有権者は「新憲法はつくるべきだ」と答えつつ、「急進的にはやらない」政党を選んだことになります。このねじれが、今後の起草作業の性格を決めることになります。
まとめ
- 1932年以降、憲法は20、成功したクーデターは13回。「クーデター→暫定憲法→新憲法→選挙→混乱」の循環がくり返された。
- 1997年「人民憲法」は民主化の頂点だったが、強い首相(タクシン)を生み、2006年のクーデターにつながった。
- 2017年憲法は、上院・20年国家戦略・独立機関・厳しい改正条項という4つの装置で、選挙結果の影響を抑える設計になっている。
- 2024年5月に上院の移行措置が終わり、首相指名は下院のみで行うようになった。
- 2026年2月8日の国民投票で新憲法制定が承認(賛成60.16%)。ただし国王に関する章の扱いが最大の争点で、完成は2028年以降とみられる。
章末チェック(5問)
1. 1932年6月24日に起きた出来事の呼び名は。
- 暗黒の5月
- 立憲革命 ← 正解
- 10月14日事件
- 人民憲法の制定
人民党(カナ・ラーサドーン)による無血クーデターで、絶対王政が立憲君主制に変わりました。
2. 1997年憲法が「人民憲法」と呼ばれる理由として正しいものは。
- 市民が起草に広く参加し、上院を全員公選にして独立機関を創設した ← 正解
- 国民投票なしで制定されたから
- 軍が起草したから
- 国王が単独で公布したから
憲法裁判所・EC・NACC・国家人権委員会の創設も1997年憲法によるものです。
3. 2017年憲法が組み込んだ「歯止め」に含まれないものは。
- 上院の任命(移行期)
- 20年国家戦略
- 独立機関の権限強化
- 大統領制の導入 ← 正解
4つの装置は上院、20年国家戦略、独立機関、厳しい改正条項です。
4. 上院250名が首相指名に投票できた経過措置が終わったのはいつか。
- 2019年3月
- 2021年11月
- 2024年5月 ← 正解
- 2026年2月
2024年5月に移行期が終了し、以後の首相指名は下院の過半数のみで行われます。
5. 2026年2月8日の国民投票の結果として正しいものは。
- 新憲法制定に賛成60.16%、反対31.28%、投票率69.65% ← 正解
- 新憲法制定は否決された
- 賛成50.2%で辛うじて可決
- 投票率が低く不成立
新憲法制定が承認されましたが、完成は2028年以降とみられています。