国王と国家の三本柱
タイを理解するうえで、王室は避けて通れません。しかし日本語で読める説明は、「国民が心から敬愛している」という賛辞か、「批判が許されない」という警告のどちらかに偏りがちです。この章では、制度としての立憲君主制を、憲法の条文・歴史・経済的基盤・そして刑法112条という順に、できるだけ冷静に見ていきます。同時に、外国人としてどう振る舞うべきかという実務も扱います。
1932年の立憲革命で絶対王政は終わったが、ラーマ9世の70年の治世を通じて王室の権威はむしろ強まった。
憲法上の国王の権限は儀礼的なものが中心だが、「侵すべからざる」地位(憲法6条)と枢密院・軍との関係が実際の影響力を支える。
刑法112条(不敬罪)は3〜15年の禁錮を定める。誰でも告訴できる運用が、リスクの予測を難しくしている。
立憲君主制――1932年に何が変わったのか
1932年6月24日、人民党(คณะราษฎร カナ・ラーサドーン)と名乗る軍人と官僚のグループが無血のクーデターを起こし、絶対王政(สมบูรณาญาสิทธิราชย์)を立憲君主制に変えました。これがタイの近代政治の出発点です。
このとき変わったのは、法的には主権の所在です。国王が持っていた主権は「国民に属する」ものとなり、国王は憲法の下で権限を行使する存在になりました。現行の2017年憲法も、第3条で「主権は国民に属する。国王は元首として、国会・内閣・裁判所を通じてこの権力を行使する」と定めています。
この3語は、学校の朝礼で唱えられ、憲法前文に現れ、クーデターの正当化にも使われてきた。
憲法における国王――条文で読む
2017年憲法のうち、国王に関する主要な条文を整理します。条文だけを読むと権限は限定的に見えますが、「何を定めていないか」にも注意して読んでください。
| 条 | 内容 | 実務上の意味 |
|---|---|---|
| 第2条 | タイは国王を元首とする民主主義国家である | 国体の定義。改正のハードルが最も高い部分 |
| 第3条 | 主権は国民に属し、国王が国会・内閣・裁判所を通じて行使する | 三権の上に国王が位置する構図 |
| 第6条 | 国王は崇敬される地位にあり、何人も侵すことはできない。訴追もできない | 刑法112条の憲法上の根拠とされる |
| 第7条 | 枢密院を置く(議長1名+18名以内) | 国王の常設の助言機関。元首相・元軍高官が就任 |
| 第9条 | 国王は仏教および他宗教の擁護者である | 宗教行政への正統性 |
| 第10条 | 国王は国軍の統帥者である | 軍との儀礼的・象徴的な結びつき |
| 第81条 | 法律は国王の裁可により成立する | 裁可拒否の場合、国会は3分の2で再可決できる |
憲法6条は国王を「何人も訴追できない」と定める。
ラーマ9世の70年と、ラーマ10世の現在
現在の王朝はチャクリー王朝(1782年〜)で、国王はラーマ○世という通称で呼ばれます。タイの現代政治を理解するうえで決定的に重要なのが、ラーマ9世=プーミポン・アドゥンヤデート国王(在位1946〜2016年)の70年です。
開発王としてのラーマ9世
ラーマ9世は即位当初、権限も権威も限られていました。しかし1950年代以降、地方を精力的に巡幸し、灌漑・農業・代替作物(ケシ栽培からの転換)などの王室プロジェクト(โครงการหลวง)を4,000件以上手がけました。テレビの普及とともに「国民のために働く国王」の像が全国に浸透し、王室の権威は歴史上もっとも高い水準に達します。
政治的な節目でも決定的な役割を果たしました。1973年の学生運動(10月14日事件)では軍事政権の指導者たちが出国し、国王が事態を収拾。1992年の「暗黒の5月」では、スチンダー首相とチャムロン元バンコク都知事を呼び、ひざまずく2人を諭す映像が全国に流れました。この2つの映像が、「最後の調停者としての国王」という像を決定づけたのです。そして1997年の通貨危機の直後、ラーマ9世は誕生日の演説で「足るを知る経済(เศรษฐกิจพอเพียง)」を説きました。
ラーマ10世の時代
| お立場 | お名前 | 備考 |
|---|---|---|
| 国王 | ラーマ10世(マハー・ワチラロンコン) | 1952年生。2016年即位、2019年戴冠 |
| 王妃 | スティダー王妃 | 2019年5月に王妃に。元王室警護部隊の将官 |
| 王姉 | シリントーン王女 | 教育・文化・国際交流の分野で国民的な人気が高い |
| 王姉 | ウボンラット王女 | 2019年に一政党から首相候補に擁立され、直後に取り下げられた |
| 王女 | バッチャラキティヤーパー王女 | 国王の長女。2022年12月に倒れ、以後療養中 |
| 王女 | シリワンナワリー王女 | ファッションデザイナーとしても活動 |
| 王子 | ティパンコーン王子 | 2005年生 |
王室の主要な構成(2026年時点)
ラーマ10世の治世に入ってから、制度面で重要な変化が3つありました。① 2017年憲法の草案に国王の修正要求が反映され、公布前に条文が変更されたこと。② 王室財産の管理方式が改められ、国王名義に整理されたこと。③ 一部の陸軍部隊が国王の直接指揮下に移されたこと。いずれも、王室と国家機構の関係を再定義する動きでした。
王室の経済的基盤
王室は、国家予算からの王室関係費に加えて、独自の資産基盤を持ちます。中心は王室財産局(สำนักงานทรัพย์สินพระมหากษัตริย์ CPB)が管理してきた不動産と株式です。2017年の王室財産法改正と2018年の名義整理により、これらの資産は国王個人の名義に移されました。
刑法112条――知っておくべきこと
タイ刑法112条は、「国王、王妃、王位継承者または摂政を、誹謗し、侮辱し、または脅迫した者は、3年以上15年以下の禁錮に処する」と定めています。いわゆる不敬罪(lese-majeste)です。外国人として押さえるべき論点は、法定刑の重さそのものよりも、手続きの構造にあります。
- 誰でも告訴できる。被害者である王室関係者ではなく、第三者の一般市民が警察に告訴できる。警察は受理すれば捜査義務を負う。
- 「侮辱」の範囲が条文上あいまい。何が該当するかは、捜査機関と裁判所の判断に委ねられる部分が大きい。
- 保釈が認められないことがある。長期の未決勾留が生じうる。
- 罪数が積み上がる。投稿ごとに1件と数えられ、複数の投稿があると法定刑が合算されて非常に長期の判決になった例がある。
- 外国人にも適用されうる。過去に外国人が訴追・有罪判決を受けた例がある。
新規訴追件数(概数・年平均ベース)。出典:人権団体iLawなどの集計をもとにした概数。2018〜19年に事実上停止したのち、2020年11月に運用が再開された。
運用は政治情勢によって大きく変動してきました。2014年のクーデター後に急増し、2018年から2020年前半にかけては国王の意向により事実上停止していたと説明されています。しかし2020年に学生を中心とする大規模な運動が王室改革の10項目要求を掲げると、同年11月に運用が再開され、以後、数百人が訴追されました。この問題は、2026年時点でも憲法改正論議の主要な争点の一つです。
王室と日常生活――カレンダーと色
王室は制度としてだけでなく、日常のリズムとしてタイ社会に埋め込まれています。祝日、街の装飾の色、映画館での起立、朝夕の国歌。これらを知らないと、単純に「失礼な人」になってしまいます。
| 日付 | 行事 |
|---|---|
| 1月1日 | 元日 |
| 2〜3月 | マーカブーチャ(万仏節)。禁酒日 |
| 4月6日 | チャクリー王朝記念日 |
| 4月13〜15日 | ソンクラーン(タイ正月) |
| 5月上旬 | 戴冠記念日(5月4日)/農耕祭 |
| 6月3日 | スティダー王妃誕生日 |
| 7月28日 | 国王誕生日(ラーマ10世) |
| 8月12日 | シリキット王太后誕生日=母の日 |
| 10月13日 | ラーマ9世崩御記念日 |
| 10月23日 | チュラーロンコーン大王記念日 |
| 12月5日 | ラーマ9世誕生日=父の日・国家の日 |
| 12月10日 | 憲法記念日 |
祝日は毎年閣議で微調整されるため、12月に翌年の官報で確定版が出ます。人事・経理担当は必ず確認を。
まとめ
- 1932年の立憲革命で主権は国民に移ったが、国王は元首・国軍統帥者・仏教の擁護者として位置づけられ続けている。
- ラーマ9世の70年(開発王、1973年と1992年の調停、足るを知る経済)が現在の王室の権威の土台をつくった。
- ラーマ10世の時代に、憲法・王室財産・軍の指揮系統で制度的な再編が進んだ。
- 王室財産はバンコク中心部の土地とSCG・SCBの株式が中心。商業不動産のリースホールドの多さは、この構造と関係する。
- 刑法112条は3〜15年の禁錮。誰でも告訴でき、範囲があいまいで、外国人にも適用されうる。発言は慎重に。
章末チェック(5問)
1. タイの立憲君主制が始まったのはいつか。
- 1782年6月24日
- 1932年6月24日 ← 正解
- 1946年6月9日
- 1997年10月11日
1932年6月24日の立憲革命。人民党(カナ・ラーサドーン)による無血クーデターでした。
2. 2017年憲法第6条が国王について定めていることは。
- 国王は国民統合の象徴にすぎない
- 国王は崇敬される地位にあり、何人も侵すことができず、訴追もできない ← 正解
- 国王は内閣の助言と承認により国事行為を行う
- 国王は国会の解散権を単独で持つ
第6条は刑法112条の憲法上の根拠とされます。
3. ラーマ9世が1997年に提唱し、いまも国家計画の理念になっている考え方は。
- Thailand 4.0
- 足るを知る経済(充足経済) ← 正解
- BCG経済モデル
- 20年国家戦略
通貨危機直後の誕生日演説で説かれ、現在も第13次5か年計画と20年国家戦略の基本理念です。
4. 刑法112条の法定刑として正しいものは。
- 1年以上5年以下の禁錮
- 3年以上15年以下の禁錮 ← 正解
- 罰金のみ
- 5年以上20年以下の禁錮
3〜15年の禁錮。実務上もっとも注意すべきは、第三者の誰でも告訴でき、対象の範囲があいまいで予測が難しい点です。
5. 12月5日は何の日か。
- 憲法記念日
- ラーマ10世誕生日
- ラーマ9世の誕生日で、父の日かつ国家の日 ← 正解
- チャクリー王朝記念日
12月10日が憲法記念日、7月28日がラーマ10世誕生日です。