タイ政治経済ラボ / 第2章 国王と国家の三本柱
第2章約40分6節

国王と国家の三本柱

――統治しない。しかし、政治を規定する

タイを理解するうえで、王室は避けて通れません。しかし日本語で読める説明は、「国民が心から敬愛している」という賛辞か、「批判が許されない」という警告のどちらかに偏りがちです。この章では、制度としての立憲君主制を、憲法の条文・歴史・経済的基盤・そして刑法112条という順に、できるだけ冷静に見ていきます。同時に、外国人としてどう振る舞うべきかという実務も扱います。

この章の要点
1

1932年の立憲革命で絶対王政は終わったが、ラーマ9世の70年の治世を通じて王室の権威はむしろ強まった。

2

憲法上の国王の権限は儀礼的なものが中心だが、「侵すべからざる」地位(憲法6条)と枢密院・軍との関係が実際の影響力を支える。

3

刑法112条(不敬罪)は3〜15年の禁錮を定める。誰でも告訴できる運用が、リスクの予測を難しくしている。

2-1

立憲君主制――1932年に何が変わったのか

1932年6月24日、人民党(คณะราษฎร カナ・ラーサドーン)と名乗る軍人と官僚のグループが無血のクーデターを起こし、絶対王政(สมบูรณาญาสิทธิราชย์)を立憲君主制に変えました。これがタイの近代政治の出発点です。

このとき変わったのは、法的には主権の所在です。国王が持っていた主権は「国民に属する」ものとなり、国王は憲法の下で権限を行使する存在になりました。現行の2017年憲法も、第3条で「主権は国民に属する。国王は元首として、国会・内閣・裁判所を通じてこの権力を行使する」と定めています。

⚠️まちがえやすい|「国王は象徴だから政治に関係ない」は誤り
日本国憲法の「象徴天皇」とタイの国王は、条文の見た目は似ていても、政治的な位置づけが大きく違います。タイの国王は国軍の統帥者であり、仏教の擁護者であり、枢密院という常設の助言機関を持ちます。そして何より、1973年と1992年の政治危機で国王が事実上の調停者として行動した歴史的記憶が、いまも生きています。
ชาติ
国 家
国民国家としてのタイ。領土と主権。
ศาสนา
宗 教
上座部仏教。国教ではないが特別に保護。
พระมหากษัตริย์
国 王
国民統合の象徴。道徳的権威の源泉。

この3語は、学校の朝礼で唱えられ、憲法前文に現れ、クーデターの正当化にも使われてきた。

2-2

憲法における国王――条文で読む

2017年憲法のうち、国王に関する主要な条文を整理します。条文だけを読むと権限は限定的に見えますが、「何を定めていないか」にも注意して読んでください。

内容実務上の意味
第2条タイは国王を元首とする民主主義国家である国体の定義。改正のハードルが最も高い部分
第3条主権は国民に属し、国王が国会・内閣・裁判所を通じて行使する三権の上に国王が位置する構図
第6条国王は崇敬される地位にあり、何人も侵すことはできない。訴追もできない刑法112条の憲法上の根拠とされる
第7条枢密院を置く(議長1名+18名以内)国王の常設の助言機関。元首相・元軍高官が就任
第9条国王は仏教および他宗教の擁護者である宗教行政への正統性
第10条国王は国軍の統帥者である軍との儀礼的・象徴的な結びつき
第81条法律は国王の裁可により成立する裁可拒否の場合、国会は3分の2で再可決できる
憲法に書かれた権限
実際に働いている影響力
元首
元首としての地位:国家元首。国軍の最高司令官(統帥者)
軍上層部との儀礼的・人的な結びつき
立法
立法:法律・王令の裁可。拒否した場合、国会は3分の2で再可決できる
裁可が遅れること自体が政治的メッセージになりうる
人事
人事:首相・大臣・裁判官・軍高官などを形式的に任命
枢密院を通じた助言。高官人事への事実上の関与
恩赦
恩赦:個別・一般の恩赦を与える
受刑者の減刑や帰国に直結する(実例あり)
宗教
宗教:仏教の擁護者。上座部サンガの頂点に位置づけられる
僧団人事と宗教行政への影響
象徴
象徴:国民統合の象徴。「侵すべからざる」存在(憲法6条)
国民の敬愛と、刑法112条による法的保護

憲法6条は国王を「何人も訴追できない」と定める。

枢密院องคมนตรีオンモントリー
国王が任命する助言機関。議長は2019年からスラユット・チュラーノン元首相。歴代の議長(プレーム元首相など)は、政治的にきわめて重い存在だった。
王室機関ส่วนราชการในพระองค์スワン・ラーチャカーン・ナイ・プラオン
2017年の法改正で、王室関連の組織(王室事務局、王室警護部隊など)が国王の直接の指揮下に再編された。
王室用語ราชาศัพท์ラーチャサップ
王族について話すときは通常のタイ語と異なる語彙を使う。テレビのニュースで王室関連の報道の口調が変わるのはこのため。
2-3

ラーマ9世の70年と、ラーマ10世の現在

現在の王朝はチャクリー王朝(1782年〜)で、国王はラーマ○世という通称で呼ばれます。タイの現代政治を理解するうえで決定的に重要なのが、ラーマ9世=プーミポン・アドゥンヤデート国王(在位1946〜2016年)の70年です。

開発王としてのラーマ9世

ラーマ9世は即位当初、権限も権威も限られていました。しかし1950年代以降、地方を精力的に巡幸し、灌漑・農業・代替作物(ケシ栽培からの転換)などの王室プロジェクト(โครงการหลวง)を4,000件以上手がけました。テレビの普及とともに「国民のために働く国王」の像が全国に浸透し、王室の権威は歴史上もっとも高い水準に達します。

政治的な節目でも決定的な役割を果たしました。1973年の学生運動(10月14日事件)では軍事政権の指導者たちが出国し、国王が事態を収拾。1992年の「暗黒の5月」では、スチンダー首相とチャムロン元バンコク都知事を呼び、ひざまずく2人を諭す映像が全国に流れました。この2つの映像が、「最後の調停者としての国王」という像を決定づけたのです。そして1997年の通貨危機の直後、ラーマ9世は誕生日の演説で「足るを知る経済(เศรษฐกิจพอเพียง)」を説きました。

1932
立憲革命
絶対王政の終わり
1946
ラーマ9世即位
18歳で即位。在位70年
1973
10月14日事件
国王が調停し、軍事政権が倒れる
1992
暗黒の5月
国王が両者を諭す映像が全国に流れる
2016
ラーマ9世崩御
10月13日。ラーマ10世即位
2017
新憲法公布
草案に国王の修正要求が反映された
2019
戴冠式
5月。同年、一部部隊が国王の直接指揮下へ
2020
学生運動
王室改革の10項目要求が公表される

ラーマ10世の時代

お立場お名前備考
国王ラーマ10世(マハー・ワチラロンコン)1952年生。2016年即位、2019年戴冠
王妃スティダー王妃2019年5月に王妃に。元王室警護部隊の将官
王姉シリントーン王女教育・文化・国際交流の分野で国民的な人気が高い
王姉ウボンラット王女2019年に一政党から首相候補に擁立され、直後に取り下げられた
王女バッチャラキティヤーパー王女国王の長女。2022年12月に倒れ、以後療養中
王女シリワンナワリー王女ファッションデザイナーとしても活動
王子ティパンコーン王子2005年生

王室の主要な構成(2026年時点)

ラーマ10世の治世に入ってから、制度面で重要な変化が3つありました。① 2017年憲法の草案に国王の修正要求が反映され、公布前に条文が変更されたこと。② 王室財産の管理方式が改められ、国王名義に整理されたこと。③ 一部の陸軍部隊が国王の直接指揮下に移されたこと。いずれも、王室と国家機構の関係を再定義する動きでした。

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王室の経済的基盤

王室は、国家予算からの王室関係費に加えて、独自の資産基盤を持ちます。中心は王室財産局(สำนักงานทรัพย์สินพระมหากษัตริย์ CPB)が管理してきた不動産と株式です。2017年の王室財産法改正と2018年の名義整理により、これらの資産は国王個人の名義に移されました。

土地
王室財産
バンコク中心部を含む広大な不動産。ラーチャプラソン、シーロム、王宮周辺など。
株式
王室財産
サイアム・セメント(SCG)とサイアム商業銀行(SCB)の大株主。
管理主体
2017〜18年の法改正
王室財産局の資産は国王の名義に整理された。資産総額は数百億ドル規模と推計されることがあるが、公式な開示はない。
王室費
国家予算
国家予算からも王室関係費が計上される(年間数十億バーツ規模)。
🧰実務メモ|ビジネス上の含意
バンコク中心部の一等地の多くが王室財産由来であるため、商業用不動産の賃借ではリースホールド(借地)の物件が非常に多くなります。「30年リース+更新オプション」という契約形態が一般的なのはこのためです。地主が誰かによって更新の見通しが変わるので、長期の店舗投資を行う場合は、土地の所有形態を必ず確認してください(第18章)。
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刑法112条――知っておくべきこと

タイ刑法112条は、「国王、王妃、王位継承者または摂政を、誹謗し、侮辱し、または脅迫した者は、3年以上15年以下の禁錮に処する」と定めています。いわゆる不敬罪(lese-majeste)です。外国人として押さえるべき論点は、法定刑の重さそのものよりも、手続きの構造にあります。

  1. 誰でも告訴できる。被害者である王室関係者ではなく、第三者の一般市民が警察に告訴できる。警察は受理すれば捜査義務を負う。
  2. 「侮辱」の範囲が条文上あいまい。何が該当するかは、捜査機関と裁判所の判断に委ねられる部分が大きい。
  3. 保釈が認められないことがある。長期の未決勾留が生じうる。
  4. 罪数が積み上がる。投稿ごとに1件と数えられ、複数の投稿があると法定刑が合算されて非常に長期の判決になった例がある。
  5. 外国人にも適用されうる。過去に外国人が訴追・有罪判決を受けた例がある。
050100150〜2013: 30件2014-16: 90件2017-19: 15件2020: 40件2021: 100件2022: 60件2023: 30件2024: 25件〜20132014-162017-1920202021202220232024

新規訴追件数(概数・年平均ベース)。出典:人権団体iLawなどの集計をもとにした概数。2018〜19年に事実上停止したのち、2020年11月に運用が再開された。

運用は政治情勢によって大きく変動してきました。2014年のクーデター後に急増し、2018年から2020年前半にかけては国王の意向により事実上停止していたと説明されています。しかし2020年に学生を中心とする大規模な運動が王室改革の10項目要求を掲げると、同年11月に運用が再開され、以後、数百人が訴追されました。この問題は、2026年時点でも憲法改正論議の主要な争点の一つです。

📖コラム|2020年の学生運動と、その後
2020年7月から、大学生を中心に「解散・改憲・弾圧停止」を求めるデモが広がりました。8月には王室に関する10項目の要求が公表され、それまでタイの公の場では語られなかった議論が一気に表面化しました。運動はコロナ禍と112条の適用強化のなかで下火になりましたが、若い世代の政治意識として残り、2023年の前進党(現・人民党)の躍進の背景になりました。2026年2月の総選挙では同党は120議席に後退しましたが、依然として若年層の最大の受け皿です。
⚠️まちがえやすい|外国人として、実務上どうするか
本書は「批判してはいけない」とも「自由に議論すべきだ」とも言いません。実務として重要なのは、リスクが予測しにくいという一点です。① 王室に関する評価・論評を、SNSやチャットに書かない(タイ国外からの投稿でも、タイ入国時に問題になりうる)。② 職場や取引先での会話で、この話題を自分から始めない。③ 相手が話し始めても、賛否のいずれにも踏み込まず、聞き役に徹する。④ 写真や紙幣・肖像の扱いに注意する。これは臆病さではなく、他国で商売をする者の基本動作です。
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王室と日常生活――カレンダーと色

王室は制度としてだけでなく、日常のリズムとしてタイ社会に埋め込まれています。祝日、街の装飾の色、映画館での起立、朝夕の国歌。これらを知らないと、単純に「失礼な人」になってしまいます。

日付行事
1月1日元日
2〜3月マーカブーチャ(万仏節)。禁酒日
4月6日チャクリー王朝記念日
4月13〜15日ソンクラーン(タイ正月)
5月上旬戴冠記念日(5月4日)/農耕祭
6月3日スティダー王妃誕生日
7月28日国王誕生日(ラーマ10世)
8月12日シリキット王太后誕生日=母の日
10月13日ラーマ9世崩御記念日
10月23日チュラーロンコーン大王記念日
12月5日ラーマ9世誕生日=父の日・国家の日
12月10日憲法記念日

祝日は毎年閣議で微調整されるため、12月に翌年の官報で確定版が出ます。人事・経理担当は必ず確認を。

曜日の色สีประจำวันシー・プラチャム・ワン
月=黄、火=桃、水=緑、木=橙、金=青、土=紫、日=赤。王族の誕生曜日の色が記念日に街を彩る。ラーマ9世もラーマ10世も月曜日生まれ=黄色。
服喪ไว้ทุกข์ワイトゥック
国王崩御時には全国的な服喪期間が設けられ、官庁職員の黒服着用や娯楽行事の自粛が求められる(2016年は1年間)。
王室行事の交通規制ปิดถนนピット・タノン
王族の移動時には道路が一時封鎖される。バンコク中心部で突然の渋滞に遭ったら、これを疑う。重要な商談の日は、時間に余裕をもつこと。
📍現場で見る|王室を「見る」場所
ワット・プラケオと王宮:チャクリー王朝の中枢。服装規定が厳しい。ラーマ5世騎馬像(ロイヤルプラザ):10月23日には市民が花を捧げに来る。ラーマ9世公園やチットラダー宮の王室プロジェクト直売所(ภัทรพัฒน์、ดอยคำ):王室プロジェクトの産品が買え、「開発王」の実像が具体的に見えます。サナームルアン:かつての火葬場・儀式の場。2017年のラーマ9世の王葬儀もここでした。

まとめ

  • 1932年の立憲革命で主権は国民に移ったが、国王は元首・国軍統帥者・仏教の擁護者として位置づけられ続けている。
  • ラーマ9世の70年(開発王、1973年と1992年の調停、足るを知る経済)が現在の王室の権威の土台をつくった。
  • ラーマ10世の時代に、憲法・王室財産・軍の指揮系統で制度的な再編が進んだ。
  • 王室財産はバンコク中心部の土地とSCG・SCBの株式が中心。商業不動産のリースホールドの多さは、この構造と関係する。
  • 刑法112条は3〜15年の禁錮。誰でも告訴でき、範囲があいまいで、外国人にも適用されうる。発言は慎重に。
章末

章末チェック(5問)

1. タイの立憲君主制が始まったのはいつか。

  • 1782年6月24日
  • 1932年6月24日 ← 正解
  • 1946年6月9日
  • 1997年10月11日

1932年6月24日の立憲革命。人民党(カナ・ラーサドーン)による無血クーデターでした。

2. 2017年憲法第6条が国王について定めていることは。

  • 国王は国民統合の象徴にすぎない
  • 国王は崇敬される地位にあり、何人も侵すことができず、訴追もできない ← 正解
  • 国王は内閣の助言と承認により国事行為を行う
  • 国王は国会の解散権を単独で持つ

第6条は刑法112条の憲法上の根拠とされます。

3. ラーマ9世が1997年に提唱し、いまも国家計画の理念になっている考え方は。

  • Thailand 4.0
  • 足るを知る経済(充足経済) ← 正解
  • BCG経済モデル
  • 20年国家戦略

通貨危機直後の誕生日演説で説かれ、現在も第13次5か年計画と20年国家戦略の基本理念です。

4. 刑法112条の法定刑として正しいものは。

  • 1年以上5年以下の禁錮
  • 3年以上15年以下の禁錮 ← 正解
  • 罰金のみ
  • 5年以上20年以下の禁錮

3〜15年の禁錮。実務上もっとも注意すべきは、第三者の誰でも告訴でき、対象の範囲があいまいで予測が難しい点です。

5. 12月5日は何の日か。

  • 憲法記念日
  • ラーマ10世誕生日
  • ラーマ9世の誕生日で、父の日かつ国家の日 ← 正解
  • チャクリー王朝記念日

12月10日が憲法記念日、7月28日がラーマ10世誕生日です。