タイ政治経済ラボ / 第20章 政治とビジネスの距離
第20章約35分8節

政治とビジネスの距離

――実践編③ 汚職・コネ・言ってはいけないこと

タイで事業をしていれば、金銭を求められる場面にいつか出会います。また、言ってはいけないことを知らずに取り返しのつかない失敗をする人もいます。ここでは、汚職の構造と法的なリスク、具体的な断り方、タイ社会の作法、そして政治的リスクの管理を扱います。

この章の要点
1

タイの腐敗認識指数は180か国中100位台。汚職は小口の便宜から政策の歪みまで4つの型がある。

2

賄賂は日本の不正競争防止法でも処罰対象。タイの汚職防止法は法人にも責任を課している。「現地の慣行だから」は免責にならない。

3

王室・深南部・近隣国との領土問題・政治的立場は、外国人が公に語らない。これは臆病さではなく職業上の作法。

20-1

汚職の実像

トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数(CPI)で、タイのスコアは34前後、180か国中100位台です。ASEANではシンガポール・マレーシアより低く、ベトナム・インドネシアと同程度の水準です。

シンガポール
84点
日本
71点
韓国
64点
マレーシア
50点
中国
43点
ベトナム
40点
インドネシア
37点
タイ
34点
フィリピン
33点

腐敗認識指数(CPI)のスコア(100が最も清潔・近年の値)

小口の便宜(Facilitation)
手続きを早めるための少額の支払い。日常的に起こりうるが、法的には贈賄。
規制の裁量をめぐるもの
許認可の可否・スピードが担当官の裁量で動く場面。金額が大きくなりやすい。
公共調達
入札の仕様、評価、下請けの指定。汚職事件として摘発される典型。
政策そのものの歪み
特定企業に有利な制度設計、独占的な事業権の付与。「政策腐敗」と呼ばれる。
  1. 担当官の裁量が大きい。基準が明文化されていない、または解釈の幅が広い領域では、判断が人に依存する。
  2. 公務員の給与が低い。とくに現場レベルの職員の基本給は高くない。
  3. パトロン=クライアント関係(第1章)。「便宜を図る/恩を返す」という互酬の文化が、公私の境界を曖昧にする。
  4. 手続きが遅い。正規の手続きが遅いほど、「早める」ことに価値が生まれてしまう。

重要なのは、タイ社会自身がこれを問題と認識していることです。NACC(第6章)の権限は強化され、民間主導の反汚職イニシアチブ(CAC)に加盟する企業も増えています。「タイでは仕方がない」と外国人が言うのは、事実として誤りであり、失礼でもあります。

20-2

法的なリスク――「現地の慣行」は言い訳にならない

法域根拠ポイント
タイ汚職防止法(2018年)公務員への贈賄は刑事罰。法人にも責任があり、「適切な内部統制措置」を講じていない法人は、従業員や代理人の贈賄について責任を問われうる
日本不正競争防止法(外国公務員贈賄罪)日本企業・日本人が外国公務員に贈賄すれば、日本で処罰される。タイでの行為が日本で罪になる
米国・英国FCPA、UK Bribery Act米国上場・英国関連の企業は域外適用を受ける。UK Bribery Actは民間人への贈賄も対象

外国人・外国企業が知っておくべき法的枠組みは3層

⚠️まちがえやすい|ファシリテーション・ペイメントも原則アウト
「手続きを早めるための少額の支払い」をファシリテーション・ペイメントと呼びます。米国のFCPAには限定的な例外がありますが、英国のBribery Actには例外がなく、タイの法律でも贈賄です。そして日本の不正競争防止法にも例外はありません。「少額だから」「早くしてもらうだけだから」は、法的にはまったく通用しません。社内規程では「金額の大小を問わず禁止」と明記するのが標準です。
20-3

求められたとき、どうするか

原則論はここまでです。問題は、実際にその場面に立ったときに何を言うかです。その場で断ることを、あらかじめ決めておくのが唯一の対策です。

1
その場で判断しない
「私には決裁権がないので、会社に確認します」と伝えて持ち帰る。その場の空気で払わないことが最も重要。
2
正規の手続きを尋ねる
「正式な手数料はいくらで、どの窓口に納めますか」「領収書はいただけますか」と聞く。領収書を求めることが、最も効果的な拒否の形。
3
会社の方針として伝える
「当社はグループの規則で、領収書のない支払いが一切できません」と説明する。個人の意思ではなく組織の制約として示す。
4
代替案を出す
時間がかかることを受け入れる、書類を追加で用意する、上位の窓口に相談する、など「払わずに進める道」を探す。
5
記録を残す
日時・場所・相手・要求内容をメモし、社内に報告する。同じ窓口で繰り返される場合、商工会議所や大使館経由で問題提起できることもある。
6
それでも困ったら
弁護士、加入する商工会議所、日本大使館の経済班に相談する。一社で抱え込まない。

金銭を求められたときの6ステップ

🧰実務メモ|会社として用意しておくもの
① 贈収賄防止規程(タイ語・日本語)。「領収書のない支払いは金額を問わず禁止」を明記。② 接待・贈答の上限額と承認手続き。タイの公務員倫理規則では、公務員が受け取れる贈答は1回あたり3,000バーツ以下が目安とされています。この基準を社内規程に取り込むとわかりやすい。③ 相談窓口と内部通報制度。現場が一人で判断しなくて済む体制をつくる。④ 年1回の研修。とくに購買・物流・許認可の担当者。⑤ 代理人・コンサルタントとの契約に反腐敗条項を入れる。代理人が払えば、会社が払ったのと同じです。
📖コラム|「早く進める」正攻法もある
手続きが遅いときに使える正規の手段は、意外にあります。① ワンストップサービス(BOI、EEC事務局、IEAT)を使う。② 事前相談に行き、必要書類を先に確認する。③ 専門業者(ライセンス保有のエージェント)に依頼する。彼らは手続きに精通しており、正規のルートで速い。④ 上位の窓口に照会する。県レベルで止まっているなら本省に聞く。⑤ 商工会議所を通じて制度的に問題提起する。支払いよりも、この5つを試すほうが結果的に速いことが多いのです。
20-4

タイ社会の作法――一人前に振る舞うために

汚職とは別に、タイ社会で信用される振る舞いというものがあります。これは道徳の話ではなく、実務の効率の話です。

クレンチャイ
เกรงใจ
相手に気を遣って言い出せない心理。「できません」と言えないのはこれ。
ナー(面子)
หน้า
人前で叱責すると関係が終わる。指摘は必ず一対一で。
ブンクン
บุญคุณ
受けた恩。長期の互恵関係の基礎。見返りを急がない。
サニュック
สนุก
楽しさ。仕事にも楽しさが要るという価値観。
マイペンライ
ไม่เป็นไร
気にしない。寛容さでもあり、問題の先送りでもある。
ジャイイェン
ใจเย็น
冷静であること。怒りを見せた側が「負け」とみなされる。

タイのビジネス文化で決定的なのがジャイイェン(冷静さ)です。会議で声を荒らげる、人前で部下を叱責する、取引先に強い言葉で詰め寄る――これらは日本では「厳しい」で済むことがありますが、タイでは「自制心のない人物」という評価になり、以後まともに扱われなくなります。そしてナー(面子)。問題を指摘するときは、必ず一対一で、相手の立場を守る言い方をする。この一点を守れるかどうかで、現地スタッフの定着率が目に見えて変わります。

🧰実務メモ|悪い報告を上げてもらう3つの工夫
① 「報告してくれてありがとう」を最初に言う。問題の内容を聞く前に、報告という行為を評価する。② 仕組みで拾う――日報、週次の1on1、匿名の意見箱。「言いにくいことを言う場」を制度として用意する。③ こちらから聞きに行く。「問題ありませんか」ではなく「今週いちばん困ったことは何でしたか」と具体的に尋ねる。この3つで、報告の質が確実に変わります。
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人脈――「コネ」ではなく「回路」をつくる

タイでは「誰を知っているか」が確かに効きます。しかし外国人にとって重要なのは、個人的なコネではなく、制度的な回路です。個人のコネは、その人が異動・失脚すれば消えます。

商工会議所
盤谷日本人商工会議所(JCC)は会員1,700社超。業界部会が情報と陳情の窓口になる。
業界団体
自動車、電子、食品などの業界団体。規制の意見募集はここを通る。
政府機関の窓口
BOI、EEC事務局、ジェトロ。公式ルートは意外に機能する。
学縁・同窓
チュラロンコン大、タマサート大の同窓ネットワークは強力。
ゴルフ・食事の場
タイのビジネスは関係づくりが先。ただし記録と金額の管理は厳格に。
⚠️まちがえやすい|政治家個人との近さは、リスクにもなる
特定の政治家や政党に近いと見られることは、政権交代のたびに立場が変わることを意味します。また、外国人が政党に献金することは政党法で禁止されています。業界団体・商工会議所を通じた意見表明であれば、政権が代わっても継続でき、法的にも問題がありません。地味に見えますが、これが最も強い「政治的資本」です。
20-6

政治的リスクを管理する

政権交代リスク
大臣・次官が代わると決裁が止まる。四半期ごとに政局を確認(第9章)。
政策変更リスク
補助金・関税・恩典は告示で変わる。官報と業界団体の通知を定点観測。
街頭・非常事態
大規模デモ時の出社判断、BCPの発動基準をあらかじめ文書化しておく。
国境・地政学
2025年のカンボジア国境紛争のように、突発的に物流と観光が止まる。
自然災害
洪水(2011年の教訓)、干ばつ、PM2.5。サプライヤーの立地を把握する。
評判リスク
SNSでの炎上、労働問題、環境問題。タイのSNS利用率は世界有数に高い。
🧰実務メモ|BCP(事業継続計画)にタイ固有の項目を入れる
① 大規模デモ・集会――出社停止の判断基準、在宅勤務への切替手順、駐在員家族の安全確認。② 洪水――サプライヤーの所在地マップ、代替調達先、在庫の積み増し基準(2011年の教訓)。③ PM2.5――屋外作業の中止基準、空気清浄機の配備。④ 国境情勢――カンボジア・ミャンマー国境の物流ルートの代替。⑤ 政変――非常事態宣言時の連絡体制、銀行取引・出入国が制限された場合の対応。これらを一枚の文書にまとめ、年1回見直してください。
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言ってはいけないこと

外国人として公の場で語らないほうがよい話題を整理します。これは自由な議論を否定するものではありません。他国で商売をする者としての、職業上の作法です。

王室
刑法112条。評価・論評をしない。SNSへの投稿は国外からでも避ける(第2章)。
深南部の紛争
宗教・民族が絡む。分離独立への評価は口にしない。
近隣国との領土問題
カンボジア国境、プレアビヒア寺院。感情が非常に強い話題。
政治的立場の表明
赤/黄、政党支持を社内で表明しない。従業員の分断につながる。
宗教・僧侶
仏像や僧侶を軽く扱わない。タトゥーや商品デザインにも注意。
個人の外見・出自
肌の色、出身地(イサーンなど)に関する冗談は差別と受け取られる。
📖コラム|では、政治の話は一切できないのか
そんなことはありません。事実の確認や制度の質問なら、まったく問題ありません。「今度の選挙はいつですか」「この法律はどの省が担当していますか」「最低賃金はどうやって決まるんですか」――こうした問いは、むしろタイに関心を持っている外国人として好意的に受け取られます。本書を読み終えたあなたは、この種の質問を的確にできるようになっているはずです。評価を語らず、事実を尋ねる。これが、タイで政治の話をするときの最も安全で、そして最も学びの多い姿勢です。
20-8

「一人前」とは何か

  1. 制度を知っている。何が正規の手続きかを理解し、それに沿って動くことができる。
  2. 約束を守り、急がせない。関係を長期で見て、恩を覚えている。
  3. 怒らない。問題が起きても冷静に、一対一で解決する。
  4. タイ語を少しでも話す。完璧である必要はなく、努力していることが伝わるだけで扱いが変わる。
  5. 線を引ける。払わない、言わない、関わらない、を感じよく実行できる。

この5つは、どれも本書の内容と直結しています。制度を学ぶことは、タイで敬意をもって扱われるための最短ルートなのです。

まとめ

  • タイのCPIは180か国中100位台。汚職は小口の便宜から政策の歪みまで4つの型がある。
  • 賄賂はタイの汚職防止法だけでなく、日本の不正競争防止法でも処罰される。ファシリテーション・ペイメントも例外ではない。
  • 求められたら、その場で判断せず、領収書と正規の手続きを尋ねる。会社の規程として断れる状態をつくっておく。
  • ジャイイェン(冷静さ)とナー(面子)を守ることが、実務の効率に直結する。
  • 王室・深南部・領土問題・政治的立場は語らない。評価を語らず、事実を尋ねる姿勢が最も安全で学びが多い。
章末

章末チェック(5問)

1. タイの腐敗認識指数(CPI)の順位はおよそ何位か(180か国中)。

  • 30位台
  • 60位台
  • 100位台 ← 正解
  • 150位台

スコアは34前後。ASEANではシンガポール・マレーシアより低く、ベトナム・インドネシアと同程度です。

2. 日本企業が外国公務員に賄賂を渡した場合、日本のどの法律で処罰されるか。

  • 刑法
  • 不正競争防止法(外国公務員贈賄罪) ← 正解
  • 会社法
  • 金融商品取引法

タイでの行為が日本で罪になります。ファシリテーション・ペイメントにも例外はありません。

3. 金銭を求められたときの最も効果的な断り方は。

  • その場で少額だけ払って早く済ませる
  • 領収書と正規の手数料・窓口を尋ね、会社の規程として支払えないと説明する ← 正解
  • 相手を強く非難する
  • 無視して立ち去る

個人の意思ではなく組織の制約として示すのがポイントです。その場で判断しないことが最も重要です。

4. 「ジャイイェン」「クレンチャイ」の意味の組み合わせは。

  • ジャイイェン=冷静であること、クレンチャイ=相手に気を遣って言い出せない心理 ← 正解
  • ジャイイェン=楽しさ、クレンチャイ=恩
  • ジャイイェン=面子、クレンチャイ=気にしない
  • ジャイイェン=恩、クレンチャイ=冷静さ

サニュック=楽しさ、ブンクン=恩、ナー=面子、マイペンライ=気にしない、です。

5. 外国人が公の場で語らないほうがよい話題に含まれないものは。

  • 王室
  • 深南部の紛争
  • 近隣国との領土問題
  • 最低賃金の決まり方についての質問 ← 正解

制度についての事実を尋ねるのは、むしろ好意的に受け取られます。評価を語らず、事実を尋ねるのが基本姿勢です。