政治とビジネスの距離
タイで事業をしていれば、金銭を求められる場面にいつか出会います。また、言ってはいけないことを知らずに取り返しのつかない失敗をする人もいます。ここでは、汚職の構造と法的なリスク、具体的な断り方、タイ社会の作法、そして政治的リスクの管理を扱います。
タイの腐敗認識指数は180か国中100位台。汚職は小口の便宜から政策の歪みまで4つの型がある。
賄賂は日本の不正競争防止法でも処罰対象。タイの汚職防止法は法人にも責任を課している。「現地の慣行だから」は免責にならない。
王室・深南部・近隣国との領土問題・政治的立場は、外国人が公に語らない。これは臆病さではなく職業上の作法。
汚職の実像
トランスペアレンシー・インターナショナルの腐敗認識指数(CPI)で、タイのスコアは34前後、180か国中100位台です。ASEANではシンガポール・マレーシアより低く、ベトナム・インドネシアと同程度の水準です。
腐敗認識指数(CPI)のスコア(100が最も清潔・近年の値)
- 担当官の裁量が大きい。基準が明文化されていない、または解釈の幅が広い領域では、判断が人に依存する。
- 公務員の給与が低い。とくに現場レベルの職員の基本給は高くない。
- パトロン=クライアント関係(第1章)。「便宜を図る/恩を返す」という互酬の文化が、公私の境界を曖昧にする。
- 手続きが遅い。正規の手続きが遅いほど、「早める」ことに価値が生まれてしまう。
重要なのは、タイ社会自身がこれを問題と認識していることです。NACC(第6章)の権限は強化され、民間主導の反汚職イニシアチブ(CAC)に加盟する企業も増えています。「タイでは仕方がない」と外国人が言うのは、事実として誤りであり、失礼でもあります。
法的なリスク――「現地の慣行」は言い訳にならない
| 法域 | 根拠 | ポイント |
|---|---|---|
| タイ | 汚職防止法(2018年) | 公務員への贈賄は刑事罰。法人にも責任があり、「適切な内部統制措置」を講じていない法人は、従業員や代理人の贈賄について責任を問われうる |
| 日本 | 不正競争防止法(外国公務員贈賄罪) | 日本企業・日本人が外国公務員に贈賄すれば、日本で処罰される。タイでの行為が日本で罪になる |
| 米国・英国 | FCPA、UK Bribery Act | 米国上場・英国関連の企業は域外適用を受ける。UK Bribery Actは民間人への贈賄も対象 |
外国人・外国企業が知っておくべき法的枠組みは3層
求められたとき、どうするか
原則論はここまでです。問題は、実際にその場面に立ったときに何を言うかです。その場で断ることを、あらかじめ決めておくのが唯一の対策です。
金銭を求められたときの6ステップ
タイ社会の作法――一人前に振る舞うために
汚職とは別に、タイ社会で信用される振る舞いというものがあります。これは道徳の話ではなく、実務の効率の話です。
タイのビジネス文化で決定的なのがジャイイェン(冷静さ)です。会議で声を荒らげる、人前で部下を叱責する、取引先に強い言葉で詰め寄る――これらは日本では「厳しい」で済むことがありますが、タイでは「自制心のない人物」という評価になり、以後まともに扱われなくなります。そしてナー(面子)。問題を指摘するときは、必ず一対一で、相手の立場を守る言い方をする。この一点を守れるかどうかで、現地スタッフの定着率が目に見えて変わります。
人脈――「コネ」ではなく「回路」をつくる
タイでは「誰を知っているか」が確かに効きます。しかし外国人にとって重要なのは、個人的なコネではなく、制度的な回路です。個人のコネは、その人が異動・失脚すれば消えます。
政治的リスクを管理する
言ってはいけないこと
外国人として公の場で語らないほうがよい話題を整理します。これは自由な議論を否定するものではありません。他国で商売をする者としての、職業上の作法です。
「一人前」とは何か
- 制度を知っている。何が正規の手続きかを理解し、それに沿って動くことができる。
- 約束を守り、急がせない。関係を長期で見て、恩を覚えている。
- 怒らない。問題が起きても冷静に、一対一で解決する。
- タイ語を少しでも話す。完璧である必要はなく、努力していることが伝わるだけで扱いが変わる。
- 線を引ける。払わない、言わない、関わらない、を感じよく実行できる。
この5つは、どれも本書の内容と直結しています。制度を学ぶことは、タイで敬意をもって扱われるための最短ルートなのです。
まとめ
- タイのCPIは180か国中100位台。汚職は小口の便宜から政策の歪みまで4つの型がある。
- 賄賂はタイの汚職防止法だけでなく、日本の不正競争防止法でも処罰される。ファシリテーション・ペイメントも例外ではない。
- 求められたら、その場で判断せず、領収書と正規の手続きを尋ねる。会社の規程として断れる状態をつくっておく。
- ジャイイェン(冷静さ)とナー(面子)を守ることが、実務の効率に直結する。
- 王室・深南部・領土問題・政治的立場は語らない。評価を語らず、事実を尋ねる姿勢が最も安全で学びが多い。
章末チェック(5問)
1. タイの腐敗認識指数(CPI)の順位はおよそ何位か(180か国中)。
- 30位台
- 60位台
- 100位台 ← 正解
- 150位台
スコアは34前後。ASEANではシンガポール・マレーシアより低く、ベトナム・インドネシアと同程度です。
2. 日本企業が外国公務員に賄賂を渡した場合、日本のどの法律で処罰されるか。
- 刑法
- 不正競争防止法(外国公務員贈賄罪) ← 正解
- 会社法
- 金融商品取引法
タイでの行為が日本で罪になります。ファシリテーション・ペイメントにも例外はありません。
3. 金銭を求められたときの最も効果的な断り方は。
- その場で少額だけ払って早く済ませる
- 領収書と正規の手数料・窓口を尋ね、会社の規程として支払えないと説明する ← 正解
- 相手を強く非難する
- 無視して立ち去る
個人の意思ではなく組織の制約として示すのがポイントです。その場で判断しないことが最も重要です。
4. 「ジャイイェン」「クレンチャイ」の意味の組み合わせは。
- ジャイイェン=冷静であること、クレンチャイ=相手に気を遣って言い出せない心理 ← 正解
- ジャイイェン=楽しさ、クレンチャイ=恩
- ジャイイェン=面子、クレンチャイ=気にしない
- ジャイイェン=恩、クレンチャイ=冷静さ
サニュック=楽しさ、ブンクン=恩、ナー=面子、マイペンライ=気にしない、です。
5. 外国人が公の場で語らないほうがよい話題に含まれないものは。
- 王室
- 深南部の紛争
- 近隣国との領土問題
- 最低賃金の決まり方についての質問 ← 正解
制度についての事実を尋ねるのは、むしろ好意的に受け取られます。評価を語らず、事実を尋ねるのが基本姿勢です。