タイ経済史――米の輸出国から、中所得国へ
いまのタイ経済の形は、170年かけてつくられました。1855年に不平等条約で開国させられ、米の輸出国になった。1960年代に開発独裁のもとで工業化を始めた。1985年のプラザ合意で日本企業が押し寄せ、「第5の虎」と呼ばれた。1997年に通貨危機で崩れ、そこから立ち直ったあとは成長率3%前後で足踏みしている。
1855年のボウリング条約が関税自主権を奪い、タイを米の単一輸出経済に組み込んだ。植民地化は免れたが代償があった。
1985年のプラザ合意後の日本からの直接投資が、現在の自動車・電機産業の基礎をつくった。
1997年の通貨危機は、短期外貨借入とドルペッグの組み合わせが原因。1998年の成長率は−7.6%。この経験がいまの慎重な金融政策の背景にある。
1855年――開かれた市場、失われた関税
タイ(当時のシャム)の近代経済は、1855年のボウリング条約(สนธิสัญญาเบาว์ริง)から始まります。イギリスの使節ジョン・ボウリングとラーマ4世が結んだこの条約は、輸入関税を一律3%に固定し、治外法権を認め、王室の貿易独占を廃止するものでした。
これは典型的な不平等条約ですが、シャムはこれを受け入れることで軍事的な侵略を回避しました。植民地化を免れた代償が、経済主権の一部だったのです。関税自主権が完全に回復するのは1926年、治外法権の撤廃は1930年代まで待つことになります。
経済的な帰結は劇的でした。チャオプラヤー川のデルタで運河が掘られ、水田が拡大し、米が最大の輸出品になります。同時に、精米所・商店・徴税請負を担う華人系の商人層が育ちました。この2つ――米の輸出と華人系の商業ネットワーク――が、20世紀のタイ経済の土台になります。
1932〜1957年――国家が経済に入る
立憲革命後のタイでは、国家が企業を持つという形が広がりました。ピブーン政権は「タイ人のための経済」を掲げ、たばこ・砂糖・織物などの国営企業を設立し、一部の職業を華人系から取り上げようとしました。
しかし現実には、軍・官僚と華人系実業家の提携が進みます。軍の高官が企業の役員に名を連ね、実業家は保護と許認可を得る。このパトロン=クライアント型の政商関係は、形を変えながら現在まで続いています(第20章)。
1958〜1985年――開発独裁と、計画の時代
1958年にサリット政権が発足すると、経済政策は大きく転換します。世界銀行の勧告を受けて国営企業の拡大を止め、民間主導+インフラ投資に舵を切りました。
- 1959年 投資委員会(BOI)の前身と国家経済開発庁(現NESDC)を設置。
- 1961年 第1次国家経済開発5か年計画がスタート。以後、現在の第13次計画(2023〜27年)まで続く。
- 1960年代 アメリカの援助と軍事支出(ベトナム戦争)で道路・港湾・空港が整備される。
- 1970年代 輸入代替工業化。国内市場向けに繊維・食品・組立産業が育つ。
この時期の成長率は年7〜8%。農村から都市への人口移動が始まり、バンコクが急拡大しました。ただし、この成長は首都圏に極端に偏り、地方との格差が政治問題として意識されるようになります。
1985〜1996年――「第5の虎」と外資ラッシュ
転機は1985年のプラザ合意でした。円高が急激に進み、日本企業は生産拠点を海外に移します。その最大の受け皿になったのがタイでした。政府は輸出志向工業化に方針を転換し、東部臨海開発計画(レムチャバン港、マプタプット工業地帯)を実行。1988〜1990年の成長率は年10%を超え、タイは「アジアの第5の虎」と呼ばれました。
日本からタイへの直接投資(イメージ・億バーツ換算の概数)。1985年のプラザ合意後と、2011年の東日本大震災・タイ大洪水後に大きな山がある。
この時期に、いまの日系企業の集積の骨格ができます。トヨタ、いすゞ、ホンダなどの自動車メーカーとその部品メーカー、電機・電子部品メーカーが、バンコク東部からラヨーンにかけての工業団地に集中しました。「東洋のデトロイト」という呼び名はここから来ています(第12章)。
産業構造の転換(GDPに占める割合・%)。農業のGDPシェアは40%→8%に落ちたが、就業者の約3割はいまも農業にいる。この「生産性のギャップ」が格差の根にある(第17章)。
1997年――トムヤムクン危機
1997年7月2日、タイ中央銀行はバーツの実質的なドルペッグを放棄し、管理変動相場制に移行しました。アジア通貨危機(タイでは「トムヤムクン危機」)の始まりです。
1997年アジア通貨危機――何が起きたのか
バーツの推移。1997年に1ドル25バーツから半年で56バーツまで暴落。その後は30〜35バーツのレンジで推移し、2025年以降はバーツ高方向に振れている。
危機の教訓は、その後のタイの政策に深く刻まれました。① 外貨準備を厚く積む(現在は2,500億ドル超で、輸入の8か月分を超える)。② 短期外貨借入を抑える。③ 変動相場制を維持する(ただしBOTは急激な変動には介入)。④ 銀行監督の強化。
2000年代以降――回復、そして踊り場
2000年代前半、タイ経済は輸出の回復と内需刺激策の両輪(タクシン政権の「デュアルトラック政策」)で立ち直りました。2003年にはIMFへの返済を前倒しで完了しています。
しかし2006年以降、政治の不安定が経済の重荷になります。クーデター、街頭デモ、空港占拠、内閣の交代。そのたびに投資判断が先送りされ、公共事業が止まりました。さらに2011年、チャオプラヤー流域の大洪水が発生。アユタヤやパトゥムターニーの工業団地が水没し、世界のハードディスク供給と自動車部品のサプライチェーンが混乱しました。被害額は1.4兆バーツ規模とされ、その年の成長率は0.8%に落ち込みます。2020年のコロナ禍では、観光がゼロになったことでGDPは−6.1%。実質GDPがコロナ前の水準を回復したのは2022年後半です。
170年の歴史が残したもの
この章を1文にまとめるなら、「タイ経済は、外から来る力によって形づくられてきた」ということです。英国の条約、アメリカの援助、日本の直接投資、そして近年は中国の投資と観光客。外の力をうまく取り込む柔軟さがタイの強みであり、同時に自前の技術と国内市場が育ちにくいという弱みでもあります。この弱みが「中所得国の罠」として表面化しているのが、2010年代以降の現在です(第17章)。
まとめ
- 1855年のボウリング条約で関税自主権を失い、米の輸出経済に組み込まれた。植民地化は免れたが代償があった。
- 1961年から国家経済開発5か年計画。開発独裁のもとでインフラと工業化が進んだ。
- 1985年のプラザ合意後、日本からの直接投資で自動車・電機産業の基礎ができた。
- 1997年の通貨危機は短期外貨借入とドルペッグが原因。1998年は−7.6%。以後、外貨準備を厚く積む慎重な政策が定着した。
- 2006年以降は政治の不安定、2011年の大洪水、2020年のコロナで低成長が定着した。
章末チェック(5問)
1. ボウリング条約がタイ経済に与えた影響として正しいものは。
- 輸入関税を3%に固定して関税自主権を奪い、米の輸出経済と華人系商人層を生んだ ← 正解
- タイを植民地化した
- 工業化を一気に進めた
- 通貨をドルにペッグさせた
王室の貿易独占も廃止されました。関税自主権の回復は1926年です。
2. 1985年のプラザ合意がタイに与えた影響は。
- 米の輸出が急増した
- 円高で日本企業が生産拠点を移し、タイに直接投資が集中した ← 正解
- IMFの支援を受けた
- バーツが暴落した
この時期に自動車・電機産業の集積の骨格ができました。
3. 1997年の通貨危機の直接の引き金となった制度の組み合わせは。
- 変動相場制と低金利
- 実質的なドルペッグと、BIBFを通じた短期外貨借入 ← 正解
- 高関税と輸入規制
- 国営企業の民営化
「借りても為替リスクがない」ように見えたことが、短期ドル建て債務の急増を招きました。
4. 1998年の実質GDP成長率は。
- −2.8%
- −6.1%
- −7.6% ← 正解
- +0.8%
−6.1%は2020年のコロナ禍、−2.8%は1997年、0.8%は2011年の大洪水の年です。
5. 2011年にタイの製造業を直撃した災害は。
- スマトラ沖地震
- チャオプラヤー流域の大洪水 ← 正解
- 大規模干ばつ
- 台風によるプーケットの被害
被害額は1.4兆バーツ規模とされ、世界のHDD供給と自動車部品のサプライチェーンが混乱しました。