タイ政治経済ラボ / 第17章 格差・持続可能性・中所得国の罠
第17章約35分7節

格差・持続可能性・中所得国の罠

――なぜ成長しても、豊かさが行き渡らないのか

タイは過去50年で貧困率を6割から6%以下に下げました。これは世界的にも大きな成功です。しかし同時に、地域間の格差はほとんど縮まっていません。東北部の1人あたり所得は首都圏の6分の1以下です。そして成長率は3%前後で頭打ちになり、「中所得国の罠」から抜け出せずにいます。

この章の要点
1

貧困率は1990年の6割弱から5%台に低下したが、ジニ係数は0.42前後で高止まりし、地域間格差は縮まっていない。

2

「足るを知る経済」はラーマ9世が提唱した理念で、20年国家戦略と5か年計画の基本思想になっている。

3

タイは1988年に上位中所得国となり、40年近く高所得国に届いていない。低賃金の優位が消え、技術・人材・内需のいずれも壁になっている。

17-1

貧困は減った。格差は残った

まず良い知らせから。タイの貧困率は1990年の約58%から、2024年には5%台まで下がりました。国民皆保険、義務教育の拡大、農村インフラの整備、そして経済成長が組み合わさった成果です。

貧困率(%)ジニ係数(×100)
020406080コロナ1990: 581995: 442000: 422005: 262010: 162015: 7.22020: 6.82022: 5.42024: 5.51990: 511995: 522000: 502005: 492010: 482015: 44.52020: 432022: 422024: 42199019952000200520102015202020222024

貧困率とジニ係数の推移(ジニ係数は×100で表示)

しかし、所得の分配を示すジニ係数は0.42前後で高止まりしています。これは日本(0.33前後)より明らかに高い水準です。さらに深刻なのは資産の格差で、とくに土地の所有はきわめて少数に集中しているとされます。

約5.5
貧困率(国家貧困線ベース、2024年)
0.42
ジニ係数(所得ベース)
6倍以上
首都圏と東北部の1人あたり所得の差
約51
インフォーマル就業者の割合
17-2

地域間格差――同じ国のなかの別の経済

ラヨーン県(EEC)
100万バーツ
バンコク都
60万バーツ
チョンブリー県
55万バーツ
全国平均
28万バーツ
チエンマイ県
16万バーツ
東北部(平均)
9万バーツ
ノーンブアラムプー県
6万バーツ

1人あたり県内総生産(GRP)の比較・年額の概数(万バーツ)。EEC(ラヨーン)と東北部の差は10倍を超える。ラヨーンの数値が高いのは石油化学と自動車の集積による。

この地理的な格差は、第9章で見た政治の対立軸と正確に重なります。東北部と北部の有権者が、再分配を約束する政党を支持し、首都圏のエリートがそれを「ポピュリズム」と批判する。この構図は、経済地理の非対称が生んだものです。

なぜ縮まらないのか。理由は第12章で見たとおりです。就業者の3割が、GDPの8%しか生まない農業にとどまっているからです。工業とサービス業は首都圏と東部に集中し、地方から人は出稼ぎに来ますが、多くは低賃金のインフォーマル就業にとどまります。

📖コラム|出稼ぎ送金という「見えない再分配」
イサーン出身者がバンコクや工業地帯で働き、毎月数千バーツを実家に送る。この送金の総額は、政府の地方向け予算に匹敵する規模とも言われます。ソンクラーン(4月)と年末に、バスターミナルと鉄道駅が帰省客であふれる光景は、この経済構造の可視化です。そして帰省した人びとが地元で語る政治の話が、選挙の結果を形づくっていきます。
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足るを知る経済――タイ独自の開発哲学

タイの経済政策を理解するうえで避けて通れないのが、「足るを知る経済(เศรษฐกิจพอเพียง セータキット・ポーピアン)」です。1997年の通貨危機の直後、ラーマ9世が誕生日の演説で説いた考え方で、現在は国家戦略と5か年計画の基本理念になっています。

พอประมาณ
中庸
自分の力量に見合った規模で行う
มีเหตุผล
合理性
根拠にもとづいて判断する
มีภูมิคุ้มกัน
免疫力
変化に備えて余力を残す
この3つを支える2つの条件
知識(ความรู้)
正確な情報と、慎重な検討
徳(คุณธรรม)
誠実さ、勤勉、分かち合い
= 持続する発展(การพัฒนาที่ยั่งยืน)

3つの原則(中庸・合理性・免疫力)と、それを支える2つの条件(知識・徳)。第13次国家経済社会開発計画と20年国家戦略の基本理念。

誤解されやすいのですが、これは「貧しくあれ」「成長するな」という思想ではありません。身の丈を超えた借金や投機を避け、根拠にもとづいて判断し、危機に備えて余力を残す――1997年に何が起きたかを踏まえれば、きわめて実務的な教訓であることがわかります。

学校教育では小学校から教えられ、企業のCSR、農村開発プロジェクト、そして国連のSDGsとの関連づけでも用いられます。一方で、「格差の構造に手をつけず、個人の慎み深さに責任を転嫁している」という批判もあります。この両方の見方を知っておくのが、タイ人と議論するときの適切な準備です。

🧰実務メモ|「ポーピアン」は、ビジネスの現場でも使える語彙
タイ企業の年次報告書やCSR資料には、ほぼ必ず「足るを知る経済」への言及があります。提携先やパートナーとの対話で、「持続可能な成長(การเติบโตอย่างยั่งยืน)」や「ポーピアンの考え方に沿って」という表現を使えると、共通の土俵に立ちやすくなります。ただし外国人が軽く引用すると空々しく響くこともあるので、自社の具体的な取り組みとセットで語るのが無難です。
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中所得国の罠

中所得国の罠(middle-income trap)とは、低賃金による成長が限界に達したあと、技術やイノベーションによる成長に移行できず、高所得国になれないまま停滞する状態を指します。タイは1988年に世界銀行の分類で上位中所得国になり、以後40年近く、その位置にとどまっています。高所得国の基準(1人あたりGNI約14,000ドル)に対し、タイは8,000ドル台です。

1
① 低賃金の優位が消える
最低賃金はベトナム・ミャンマーより高くなった。労働集約型の縫製・組立は近隣国へ移った。
2
② 技術で上に行けない
研究開発支出はGDPの1%台。特許出願も少ない。外資の技術に依存し、自前の技術基盤が薄い。
3
③ 人が足りない
生産年齢人口が減少局面に入った。技能人材(エンジニア・技能工)の不足が慢性化している。
4
④ 教育の質が伸びない
PISAはOECD平均を大きく下回る。産業が求める人材と教育の出口が合っていない。
5
⑤ 内需が伸びない
家計債務が消費を抑え、格差が中間層の厚みを妨げる。
6
⑥ 政治が安定しない
政権が短命で、長期の産業政策が続かない。

タイの「中所得国の罠」――6つの症状

とくに深刻なのが研究開発(R&D)です。タイのR&D支出はGDPの1%台で、韓国(4%台)、日本(3%台)、中国(2%台)に大きく後れを取っています。外国企業が持ち込んだ技術で生産する構造が長く続き、自前の技術を生む基盤が育たなかったのです(第11章)。

17-5

国家戦略――政府はどう答えようとしているか

20年国家戦略
2018〜2037年
すべての政権を拘束する(第3章)。6つの柱:安全保障、競争力、人材、機会均等、環境、行政改革。
第13次5か年計画
2023〜2027年
13のマイルストーンを設定。高付加価値産業、機会均等、持続可能性、能力ある政府。
Thailand 4.0
2016年提唱
労働集約→重工業→効率化に続く「イノベーション主導」への転換を掲げる。
BCG経済モデル
Bio・Circular・Green
農業と生物資源を高付加価値化する国家戦略。
カーボンニュートラル
2050/2065年
2050年カーボンニュートラル、2065年ネットゼロを表明。再エネ比率の引き上げとEV転換が柱。
足るを知る経済
理念
上記すべての土台に置かれる理念。国連もSDGsとの親和性を評価している。
⚠️まちがえやすい|戦略はあるが、実行が続かない
タイの長期戦略の文書は、内容として洗練されています。問題は実行の継続性です。政権が平均1〜2年で代わり、大臣が代わり、優先順位が変わる(第5章)。20年国家戦略はこの問題への「答え」として設計されましたが、戦略で政権を縛れば、民主的な政策変更もできなくなるというジレンマがあります。2026年の新憲法づくりでは、この20年戦略の扱いも論点のひとつです。
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環境――PM2.5と気候変動

観点内容
発生時期毎年12月〜4月。乾季で大気が滞留する時期に悪化
北部(チエンマイ)農地・森林の野焼きと越境煙害。世界最悪水準の日がある
バンコク自動車の排ガス、建設、周辺県のサトウキビ焼き
経済的な影響学校の休校、屋外作業の停止、観光需要の減少、医療費の増加
政策2024年に「クリーンエア法」の議論が本格化。サトウキビの焼き入れ規制、EV促進、越境協力
実務対応オフィスの空気清浄機、屋外作業の基準、従業員へのマスク支給を就業規則に入れる企業が増えている

PM2.5――毎年くり返される「季節性の危機」

気候変動への対応では、タイは2050年のカーボンニュートラル、2065年のネットゼロを表明しています。手段は再生可能エネルギーの拡大(太陽光が中心)、EVへの転換、そしてBCG経済モデルです。企業にとって重要なのは、EUのCBAM(炭素国境調整措置)などにより、輸出品の炭素排出量が問われるようになったことです。鉄鋼・セメント・アルミ・肥料などをEUに輸出する企業は、すでに排出量の報告を求められています。

🧰実務メモ|サステナビリティは「コスト」から「取引条件」へ
日系企業のタイ子会社では、① 親会社のScope3(サプライチェーン排出量)の集計に協力する、② 再エネ電力の調達(屋根置き太陽光、PPA、再エネ証書I-REC)を検討する、③ 取引先からの人権デューデリジェンス調査に答える、という業務が急速に増えています。これはCSRではなく、受注の条件になりつつあると考えてください。
17-7

これからのタイ

  1. 人口減少にどう対応するか。移民政策を開くのか、自動化で乗り切るのか。政治的にきわめて難しい選択。
  2. EV転換に乗れるか。自動車産業の雇用と部品サプライチェーンが賭かっている。
  3. 家計債務を減らしながら消費を保てるか。債務削減は短期的には消費の抑制を意味する。
  4. 米中のはざまでどう立つか。技術・貿易・安全保障で選択を迫られる場面が増える。
  5. 新憲法が何をもたらすか。政治の安定と、長期政策の継続性を確保できるか。

これらはすべて、第I部と第II部で見た政治のしくみを通じて決まります。タイの経済問題は、最終的には政治の問題なのです。

まとめ

  • 貧困率は58%(1990年)から5%台まで低下。しかしジニ係数は0.42前後で高止まり。
  • 首都圏・EECと東北部の1人あたり所得の差は6〜10倍。この経済地理が政治の対立軸を生んでいる。
  • 「足るを知る経済」は中庸・合理性・免疫力の3原則と、知識・徳の2条件。国家戦略の基本理念になっている。
  • タイは1988年から上位中所得国。低賃金の優位が消え、R&D・人材・内需のいずれもが壁になっている。
  • PM2.5と気候変動への対応は、輸出の取引条件になりつつある。
章末

章末チェック(5問)

1. タイの貧困率とジニ係数のおおよその値は。

  • 貧困率5%台、ジニ係数0.42前後 ← 正解
  • 貧困率20%台、ジニ係数0.33
  • 貧困率1%、ジニ係数0.50
  • 貧困率10%、ジニ係数0.25

貧困率は1990年の約58%から大きく下がりましたが、ジニ係数は高止まりしています。

2. 首都圏と東北部の1人あたり所得の差はどの程度か。

  • ほぼ同じ
  • 約2倍
  • 6〜10倍 ← 正解
  • 約50倍

ラヨーン県(約100万バーツ)と東北部平均(約9万バーツ)では10倍を超えます。

3. 「足るを知る経済」の3つの原則の組み合わせは。

  • 中庸・合理性・免疫力 ← 正解
  • 効率性・公平性・持続性
  • 知識・徳・勤勉
  • 自由・平等・友愛

ポープラマーン(中庸)、ミーヘートポン(合理性)、ミープーミクムカン(免疫力)。これを知識と徳の2条件が支えます。

4. 中所得国の罠の説明と、タイがその位置に入った年の組み合わせは。

  • 低賃金の成長が限界に達したあと技術による成長に移行できず停滞する状態/1988年 ← 正解
  • 通貨危機に陥る状態/1997年
  • 高所得国から転落する状態/2014年
  • 人口が減少する状態/2021年

高所得国の基準は1人あたりGNI約14,000ドル。タイは8,000ドル台です。

5. タイのカーボンニュートラル目標年とネットゼロ目標年の組み合わせは。

  • 2030年/2050年
  • 2050年/2065年 ← 正解
  • 2040年/2060年
  • 2060年/2080年

手段は再エネ拡大、EV転換、BCG経済モデルです。